潜像と開発

潜像は写真フィルムや印画紙などで露光した直後に形成される目に見えないイメージ・像です。英語ではLatent Imageといいます。写真に携わった方なら当たり前の概念なのですが、デジカメの時代では古すぎるかもしれません。

開発の話になぜ潜像が出てくるのか?不思議かもしれませんね。画期的であればあるほど、開発の成果をイメージするのは、開発者本人以外には難しいことです。しかし、それは開発者にとっては当たり前のように見える像なのです。他人にはまるで潜像のような存在なのでしょう。

そこで問題は、開発者のアイデアを具現化するためには、どうしても開発者以外の人の協力が必要になってきます。また、開発のためのもろもろの資源が必要です。一定のお金などですね。
問題はそこに発生します。写真の場合、潜像は現像プロセスによって目に見える顕像として万人に見えるようになるのですが、現像プロセスの前に潜像を見なければ結果を信じられない、となるようなケースが有るかもしれません。本質的に見えない潜像を見せろと要求してしまったり、潜像を見るために生フィルムや生印画紙に光を当ててしまったり・・・・ 大変ですね。光を当てても見えないのに、光を当て、「やっぱり何もない!」と確認し現像プロセスを中止する、あるいは、光を当てた後、現像してみたら、真っ黒けに被っている結果を見て、「やっぱり駄目じゃないか!」などということはないでしょうか? 開発にあたるときの心構えもやはりそうなのだと常に思っています。
未来のことだから、開発途中においては、そこにある潜像に似た一つのアイデアが存在していることを信じて、現像プロセスという開発行為によって顕像にしていくしかないわけです。 思えば、自らの反省として、「確固たる実績が無ければ採用できない」などと言われて捨ててきた、あるいは捨てざるを得なかった開発テーマがいかに多かったか。また、潜像を見る努力を続けて、タイミングが遅れてしまって、真っ黒けの現像結果を見たことか。

最近、写真現像の基本的な本を読んで、この写真のシステムを最初に考えた人はすごい人だと、思いました。銀塩フィルムはいくら眺めても何も映っていません。現像というプロセスで初めて顕像化するわけです。一度経験してしまえば、当たり前のことなのですが、それを世に出した人は相当に苦労しただろうな、と考えます。

私たちの会社でやっている開発テーマも同じような状況に追い込まれることが有ります。100%でなければ採用しない、と言って途中で開発を中止することもあります。関係者からの協力を受けられない場合もあります。しかし、愚直に進むだけ、と思うようになりました。できる限りの努力をするのですが、実現の前までは潜像は潜像なのだと・・・・。